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第6話 彼女は、もうすぐ来る

last update Tanggal publikasi: 2026-08-11 15:32:52

 警察を呼ぶ。

 正臣の声が、発表会のあとも耳に残っていた。

 奏汰へ近づけば、学校で騒いだ母親にされる。

 私は体育館を出た。正臣の言い分を増やすわけにはいかなかった。

 病院へ向かった。

 頬の傷を診た医師が、何があったのかと聞いた。

「夫に、皿を投げられました」

 口にすると、声が震えた。

 医師が頬の傷を洗ってくれた。

 病院を出て、父の部屋へ戻った。

 狭い部屋には、古い机と父の白衣が残っていた。

 父は夜遅くまでここで数字を見ていた。私も学生の頃、隣で論文を読んだ。

 正臣は結婚するとき、この部屋を見て笑った。

「もう、君が泊まり込む必要はない。研究より、久条の妻でいるほうが大事だろう」

 私はその言葉を愛されている証拠だと思おうとした。

 仕事を減らし、家の予定を優先した。久条家の奥様として間違えないように。

 でも、何を渡しても足りなかった。

 妻の席も、母の席も、名前も。

 正臣は、私を追い出して、別の女をそこへ入れた。

 午後、研究室時代の後輩からメッセージが届いた。

 ――桐谷さん、会社がまた動き出すんですってね。SENOVAと組むとか。でも今日の面談、桐谷さんじゃなくて相良さんが出るって本当ですか?

 会社が、また動き出す。知らなかった。

 父から継いだ、小さな医療データの会社だ。

 奏汰の病気を少しでも楽にしたくて、私は食事、薬、睡眠、検査値を一つにつなぐ仕組みを作った。小さな試験で腹痛の前ぶれを拾えたとき、正臣は笑って言った。

「これで久条の事業になる」

 外へ売り出す頃から正臣が会社の表に立ち、私は作った本人なのに遠ざけられた。

 共同開発の話は、しばらく止めると聞かされていた。

 奏汰のことが落ち着くまで待て、と。

 相良さん。

 莉乃の名字に指が止まった。あの女が、父から継いだ会社まで?

 続けて、短い動画が送られてきた。

 本番前の控室だった。

 莉乃が私と同じように髪をまとめ、久条側の数人へ説明していた。

 久条側の男たちが、当然のように頷く。

「大切なのは、食事だけではありません。睡眠と薬の時間を一緒に見れば、腹痛が起きる前に変化へ気づけます」

 その言葉は、私が考えたものだった。

 五歳の冬、奏汰が夜中に腹を痛がった。私は朝まで背中をさすりながら、前日に食べたものと薬を飲んだ時間を何度も思い出した。

「お腹が痛いの、僕だけ?」

「ママも同じよ。だから、どうしたら楽になるか一緒に考えよう」

 奏汰は泣きながら、私の指を握った。

 莉乃は、まだこの家にいなかった。奏汰の冷たくなった手も知らない。

 その女が、私と奏汰の夜を、自分の経験のように話している。

 私は後輩へ電話した。

「今、莉乃が話していることは、私が考えたものよ」

「やっぱり……。桐谷さんに似すぎて、気味が悪くて」

「共同開発の面談はもう始まってる?」

「もうすぐです」

「私の代わりなんて、頼んでない」

 声が大きくなった。電話の向こうで、後輩が黙った。

「ごめん。あなたに怒ってるんじゃない。SENOVAはどこ? 私が直接行く」

 場所を聞いて電話を切り、父の古い机に手をついた。

 仕事まで奪われても、まだ久条家の顔色を見ると思っているのか。

 この仕組みだけは、渡さない。

 奏汰の検査値が少しだけ戻った日、どれほどほっとしたか。

 その喜びを、莉乃は知らない。

 私は父の机から手を離し、バッグをつかんだ。

    立ち上がると、部屋を飛び出した。

***

 同じ頃、都心の高層ビルの面談室で、莉乃は壁の画面を指していた。

「ご覧のとおり、検査値はすべて正常です。この患者様に問題はありません」

 次の画面へ進めようとした指を、上座の男の声が止めた。

「この数値は、どこの病院で測った?」

 莉乃は男へ向き直り、笑みを作った。

「提携先の病院からいただいたものです」

「病院名は」

 莉乃の指が端末の縁をなぞった。

「複数の病院とやり取りしておりますので、どちらだったか……。担当者に確認いたします」

 隣に座る久条側の男へ目を向ける。男は唇を結び、視線を膝へ落とした。

 上座から、長い指が画面の隅を示した。

「『説明用・架空患者』。そう書いてある」

 莉乃の目が、画面の文字に止まった。

「ええ、もちろん存じています。実際の患者様をもとに、分かりやすく——」

「もういい」

 言い終わる前に遮られ、莉乃は端末を握り込んだ。

 男が立ち上がった。

 莉乃は顎を上げ、その長身を見上げた。濃紺の上着が広い肩に沿い、前を開けた隙間から、シャツに包まれた厚い胸が見える。細められた目を向けられ、莉乃は開きかけた口を閉じた。

 男は窓際まで歩き、眼下の車寄せへ視線を落とした。

 午後の光が、鼻筋と顎の線を照らしている。

 久条側のもう一人が、椅子を引いた。

「では、本日はこれで。改めて説明の機会を——」

「座れ。まだ終わっていない」

 男は窓から振り返らなかった。

 莉乃は端末を抱えた。

「続きをお話ししても?」

 返事はない。

 男の視線は、車寄せから動かなかった。

 行き交う車の間を、一人の女が走ってくる。

 その姿を見つけた男の口元が、わずかに緩んだ。

「彼女は、もうすぐ来る」

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  • 夫がメイドを私の名前で抱いた――すべてを奪われた元・天才医療研究者は、冷徹社長に溺愛される   第38話 俺は、金を出したものを手放さない

     結局、昨夜は燎の部屋へ行かなかった。  ベッドに入っても、なかなか眠れなかった。  目を閉じると、燎に腰を引き寄せられた感触と、唇の熱を思い出す。  扉を開ければ、燎はきっと気づく。話がしたいのではなく、もう一度触れてほしくて来たのだと。  それが悔しくて、自分の部屋から出られなかった。 *** 「行くぞ」  翌朝八時、燎は本邸の玄関で私を待っていた。  濃紺のネクタイを締めている。昨夜、私がつかんで引いたものとは違う。 「何を見ている」 「ネクタイ。昨日と違うから」 「君が皺にした」  燎の目が、私の指へ落ちた。 「また引きたいのか」 「引きたくない」  すぐに答えたのに、燎は悪戯っぽく笑った。  私が嘘をついたと分かっている顔だった。 「どこへ?」 「君の会社だ」  昨夜の発表を思い出した。  会社はもらわない。私が作る。そう言ったばかりだ。 「まだ会社なんてないけど」 「だから、作りに行く」  燎は当然のように言い、先に扉を出た。  車が着いたのは、SENOVA本社の向かいにある高層ビルだった。  最上階へ上がると、広いフロアに新しい机が並んでいた。窓の向こうには、病院や研究施設が集まる街が見える。  真鍋が私たちを待っていた。 「ここは、来週の説明会から三十日後の選考まで、桐谷さんの会社へ貸し出します。今日から使えます。開発環境も、今夜までに使えるようにします」 「貸し出す?」  燎を見た。 「投資じゃないの?」 「投資には条件がある」  やっぱり、この男はただ甘くはない。 「どんな条件?」 「NEXUS ONEを取れ」  息を呑んだ。  まだ会社すらない私に、日本で一社しか選ばれない枠を取れと言うの?  その名前は知っていた。  海外の病院と研究機関が、日本で一社だけ開発相手を選ぶ。  選ばれれば、複数の病院で試験運用ができる。  父が生きていた頃から、いつか挑みたいと話していた選考だ。  けれど、実績のない会社が簡単に通る場所ではない。 「本気で言っているの?」 「冗談で会社は動かさない」 「人もいない。製品だってこれからよ」 「来週の説明会から、三十日ある」 「三十日しかないじゃない」  燎は少しも動じなかった。 「SENOVAは、君の会社と共同で出る」

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